智源寺専門僧堂での修行

明石 直之

修行期間 平成二十六年(2014)~令和元年(2019)

智源寺との出会いと現在

私は在家の出身であり、智源寺専門僧堂は参禅者として私を受け入れ、そして出家得度、更には出家修行の場として大変お世話になったお寺です。

私が智源寺を知り、僧侶となる機会を得たのはホームページを見てのことでした。それは極めて今風で現代的ではありますが、会い難き佛法に巡り合えた御縁であったことを思うと、改めて感慨を深くします。

さて私は、智源寺で四年半の修行をさせて頂きました。その間、多くの雲水(うんすい=修行僧)達との出会いと別れがあり、お互いの研鑽に邁進して参りました。坐禅・作務(さむ=仕事)をはじめ、典座(てんぞ=食事係)としての務め、更には法要進退に檀務と、禅宗の僧侶としての基本的なことの他、祖録(そろく=先徳の宗教書)の参究などを通して佛教・禅宗の奥深いところを学びました。また充実した講師陣による書道及び梅花流御詠歌の講義、お袈裟の自縫等、かけがえのない様々な経験を積むことができました。このことは今でも本当に感謝しています。

現在私は智源寺を離れ、千葉県のお寺の住職候補として檀務・寺務を勉強していますが、まだまだ僧侶としては駆け出しの浅学の徒に過ぎません。専門僧堂での修行は一つの区切りがつきましたが、修行に終わりがないことを痛感しています。

私にとって修行は、右に述べたことの他に、何気のない日々の生活の中にもその種となるものが潜んでいると考えています。例えば、師匠となる方のさりげない普段の立ち居振る舞いや言葉遣い、礼儀作法と云ったものを修得し、日常でさりげなく行えるようになることもまた大切な修行だと思っています。

僧堂から離れるとなかなか行持綿密にとはいきませんが、『正法眼蔵行持』の巻に「発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。」と云う言葉があります。修行は少しの間隙もなく循環して持続していくものです。もし、日々の生活において俯仰天地に恥じるような行いをしそうになった時、この言葉と智源寺での修行を思い出し、自身を省み正していこうと思っています。

本当の修行とは

智源寺専門僧堂での修行を考えておられる方々に是非ともお伝えしておきたいことがあります。

修行はつらいです。暑さ、寒さ、痛さ、眠さ、これらは当然覚悟の上と思いますが、意外とつらいのは単調さです。

修行を志して入ったつもりが、一通り修行生活に慣れてくると、ややもすると心底を明らめようとする情熱が失われていることに気づきます。そうすると世間のような競争や刺激の少ない修行生活では方向を失った船のように漂い始めます。その人の出家の動機が問われているのです。

本当はここからが修行です。自分の足元とお釈迦様はじめ数々の先徳方の心底や行いを比較して自分の工夫の少なさを知って初めて、修行に身が入るものと思います。

修行を志しておられる方々には是非とも志高くそして深く修行していただきたい、そうすれば出家者としての果報は自ずとついて回ると思うのです。

具体的に申し上げれば、お釈迦様の智慧と慈悲を学ぼうとすることは当然のこととして、世間的には良き僧侶となれるようにどん欲に多くのことを学ぼうとすることが大事だと考えます。

私自身のことで恐縮ですが、四年半ほどの短い修行生活の間、少しなりとも我見我慢のわがままを削り落していただき、住職に必要な多くのことを学ばせていただいたからこそ、思いもかけない御縁をいただいて今のお寺の住職候補として迎え入れてくださったものと思っています。

令和二年 涅槃会の日 記す

智源寺専門僧堂での学びが生きた経験に

羽賀 孝行

(修行期間 平成18年~平成26年 うち智源寺安居は平成18年~20年)

はじめに

お寺の生まれでない私が智源寺専門僧堂(以下智源寺)の門を叩いてから、もう随分と時間が経ったように感じます。お陰様で智源寺にて出家修行のご縁をいただき、今では兵庫県姫路市において住職をつとめるまでになりました。この度は、これから智源寺に安居される皆さまの参考になればと、私が安居中に体験したこと感じたことなどを、要点をまとめてお伝えできればと思います。

智源寺に安居して良かった点

全体的なことを言えば、智源寺において学ぶ法要進退や、お唱え事、鳴らし物などを含めた日常行持などは、大本山永平寺のそれらに基づいています。もちろん、安居者の数が違うのでまったく同じというわけにはいきませんが、実際に智源寺で2年間安居した後に永平寺に安居させていただいた私の経験から言えば、基本ができている分、永平寺に行っても十分やっていけました。また、安居者の少ない地方僧堂ならではですが、本山では長年安居しないとできないような配役も1年目から当てられるようになるので、短期間の安居でより多くを学ぶことができます。師寮寺に戻れば様々な法要に随喜する機会がありますので、生きた経験になると思います。

また、智源寺は檀家のあるお寺ですので、修行僧も法事や葬儀のお手伝いをする機会があります。これも師寮寺での檀務では非常に生きる経験です。お師匠様としても、安居を終えたあと、十分に戦力として期待していただけるのではないでしょうか。

私も安居を終えてお寺の住職になってみますと、法事や葬儀などの檀務から地域寺院の法要随喜まで、ほとんど困ることはありません。これは本当に有り難く感じています。

ある程度の力をつけるためには安居期間はせめて1年間。できれば2年間がおすすめです。半年ではさすがに十分は身につきません。

智源寺に安居して困った点

安居者が少ないと、困ることも起きてきます。大きくは、日常行持や法要進退を正式な形でつとめられなくなるということです。私が安居していた頃も、安居者が15人近く居てより正式な形で修行ができた時期もあれば、数人だけしかおらず、少人数なりのやり方で行持をつとめるしか仕方のない時期もありました。一人でいくつもの配役を受け持つというのは、それはそれで勉強にはなりましたが、安居者の数によって法要進退の学びの質に差が出てしまうのは、地方僧堂の一般的な弱点とも言えるのかなと思います。

ただ、智源寺の場合は祖録の講読や漢詩の講義がありますので、法要進退のみならず、自身の宗教心の向上に目を向けることも必要かと思います。

また、地方僧堂はご本山に比べて安居者の安居期間が短い傾向があります。そうすると、育ったそばから人が抜けてしまうため、修行や檀務の引き継ぎなど考えると、全体の向上や洗練がされにくくなってしまいます。長期間留まって修行を深めようと思えば、後輩雲水のお世話をしながらも、単騎でも突き進んでいくぞという堅固な道心が必要になるのではないでしょうか。私自身はご本山安居や曹洞宗総合研究センターでの勉学など、智源寺の外に修行の場を求めましたが、堂長老師が親身に相談に乗って下さいますので、それぞれの道を模索していただけたらと思います。

僧堂ごと、デメリットというのはどこでもありますし、文句を言う人はどこへ行っても文句を言います。一度決めたならば歯を食いしばって最後までやる。そういう思いでいて下さい。

おわりに

曹洞宗の修行は上山してから半年ほど、細々とした進退作法を覚えるまでが大変だとよく言われます。しかしながら、本当に大変になってくるのはその後。覚えることは覚えてしまい、当初の緊張感が薄れ、淡々と決まった形で進んでいく毎日のことを考える余裕が出てきてからです。先輩雲水や役寮さんから追い立てられることがなくなり、知らないことを覚えていく達成感も少なくなり、誰かに「強制される修行」から離れた時、その時に初めて自身の根源にある道心が問われてきます。見て見ぬふりして決まった安居期間を過ごすこともできますが、自身と向き合うことが皆さんの僧侶人生を決定づける機会になるのだと、私は思います。僭越ながら、この記事が皆さまのお役に立てたなら存外の幸いです。