道元禅師の禅戒について

師家会副会長・智源寺専門僧堂 堂長
高橋信善

※漢文部分にて本来の記法と異なる部分がありますがご了承ください。

第3章

次には高祖様の「修行観」、「戒律観」を「正法眼蔵随聞記」から見てみましょう。

ある老師は、「高祖様は梵網経だけによると大乗に囚われてしまうと考えられ、嫡嫡相承の純一佛法とするには〔大乗に非ず、小乗に非ず〕の教授戒でなければならぬ」と言われた。無明を除いて「この全身心が、戒法に現成しないと正伝ということはできないこと言われております。

「正法眼蔵随聞記」には、

佛子と云は佛教に順じて直に佛位に到る為なれば、只教に随って工夫弁道すべきなり。其の教に順ずる実の行と云は、則今の叢林の宗とする只管打坐なり。是を恩ふべし。

亦云く、戒行持斎を守護すべければとて、強て宗として是を修行に立て、是によりて得道すべしと思ふも、亦これ非なり。只是れ衲僧の行履、佛子の家風なれば、随ひ行ふなり。是れを能事と云へばとて、必ずしも宗とする事なかれ。然あればとて破戒放逸なれと云には非ず。もし亦かの如く執せば邪見なり、外道なり。只佛家の儀式、叢林の家風なれば、随順しゆくなり。是を宗とする事、宋土の寺院に寓せし時に衆僧にも見え来たらず。実の得道のためには唯坐禅工夫、佛祖の相伝なり。是によりて一門の同学五眼房故葉上僧正の弟子が、唐土の禅院にて持斎をかたく守りて戒経を終日踊せしをば、教て捨てしめたりしなり。

懐奘問うて云く、叢林学道の儀式は百丈の清規を守るべきか。然あれば、彼れはじめに受戒護戒を以て先とすと見へたり。亦今の伝来相承は根本戒をさづくとみへたり。当家の口訣、面授にも、西来相伝の戒を学人にさづく。是便ち今の菩薩戒なり。然あるに今の戒経に日夜に是を踊せよと云へり。何ぞ是を踊するを捨てしむるや。

師云く、しかなり。学人最とも百丈の規縄を守るべし。然あるに比の儀式は受戒護戒座禅等なり。昼夜に戒経を踊し専ら戒を護持すと云は、古人の行履に随て祇管打坐すベきなり。座禅の時何れの戒か持たざる、何れの功徳か来たらざる。古人行じおける処の行履、皆深き心なり。私しの意楽いぎょうを存ぜずして、衆に随ひ古人の行履に任せて行じゆくべきなり。

これらによって道元禅師の戒律観をご理解いただけると思います。しかし一方では、道元禅師は「受戒」を重要視されていたことが分かります。

「正法眼蔵受戒」に、

西天東地、佛祖相傳しきたれるところ、かならず入法の最初に受戒あり、戒をうけざれば、いまだ諸佛の弟子にあらず、祖師の兒孫にあらざるなり、離過防非を参禪問道とせるがゆゑなり。戒律爲先の言、すでにまさしく正法眼臧なり、成佛作祖かならず正法眼臧を傳持するによりて、正法眼臧を正傳する祖師、かならず佛戒を受持するなり、佛戒を受持せざる佛祖あるべからざるなり。

とあります。

ここは一般的には、「離過防非」を「過を離れ非を防ぐ」ために戒を受け、「参禅して道を問う」者のなすべきことであると捉えます。しかし高祖様は「離過防非」 を、本来過もなく非もない、完全な佛徳を備えた私たちが戒を受けるのは、佛戒を受持することが当然との観点、「仏性の脱体現成」の意味あいに捉えられています。「戒律爲先の言」も「戒律をもって先と為す」の意味あいではなく、出家修道し成佛作祖する者は戒律をうけて保持するのが当然であるとの意味で、これも「仏性の脱体現成」の意味あいから捉えられています。

「正法眼臧を正傳する祖師」は無明を除いた仏祖であるから、「佛戒(佛徳)を受持する佛祖」であるのは当然のことであり、凡夫の私たちも自らの仏性を仏性たら占めるところが佛戒でありますから、迷いながらも「佛の子なり」ということです。

またある老師は薬山惟𠑊禅師掌を取り上げて、

「僧あり、薬山大師にとう。如何なるか是れ戒定慧の三学。大師いわく、我が這裏、箇の閑家具無し。」戒だ、定だ、慧だなどというよけいな道具はない。そのようなよけいな道具のないときに、それではなにがあるか、正法眼蔵涅槃妙心がある。その正法眼蔵のことを戒法という。正法眼蔵というとき、そのなかに一代蔵経はすべておきまってしまう。それだから「戒律爲先の言、まさしく正法眼蔵なり。」

と言われています。一方では、道元禅師は戒律を重んずる事も大事、と説かれております。

・・・中に佛制を守りて戒律の儀をも存じ、自行化他佛制にまかせて行ずるをば、かへりて名聞利養げなるとて人も管ぜざるなり。夫れが却て吾がためには佛教にも随ひ内外の徳も成ずるなり。(正法眼蔵随聞記)

と説かれ、さらに、

・・・人も知らざる時に密かに善事をなし、悪事を錯りて、後には発露してとがを悔ふ。かくの如くすれば便ち密密になす処の善事には感応あり、露るる悪事は懺悔せられて罪み滅する故に、自然に現益もあるなり。当果をも亦知るべし。・・・
亦冥機冥応顕機顕応等の四句あることを思うべし。亦現生後報等の三時業のこともあり。是らの道理能々学すべきなり。・・・

とも示され、持戒護戒は大事なことがらとも示され、心の功夫をして無為の佛道に入る視点に重きを置かれていることが分かります。

徹底した大乗佛教の立場「大乗の極則」ということが、高祖道元禅師の「禅戒」ということができます。このことは、「昼夜に戒経を諭し、専ら戒を護持すと云うは山人の行履に随いて祇管打坐すべきなり、坐禅の時何れの戒か保たざる、何れの功徳か来らざる。」と言われている一方では、「佛制を守りて戒律の儀をも存じ自行化他佛制にまかせて行ずるをば・・・却って吾がためには佛教にも随い内外の徳も成ずるなり」と、このように両面から説かれていて、高祖様は必ずしも戒律を否定し、或は持戒を軽く見ている訳ではないことが分かります。高祖様の言われる「坐禅」とは「全ての戒徳が備っている所の佛祖の王三昧としての「坐禅」の意味であって、坐禅をして、或は、戒律を守って佛祖をめざす、と言う意味での「坐禅」とか「持戒」とは異なります。

この点を「党網経略抄」で見てみましょう。

(注)「梵網経」二巻。姚秦、鳩摩羅什訳。詳しくは〔焚網経慮舎那佛説菩薩心地戒品第十〕。略して〔梵網菩薩戒経〕。・・・近年の研究では劉宋代(五世紀頃)に中国で成立したとみている。本経は大乗律第一の経典として、中国・日本では重視され、特に最澄が南都小乗律に対し、本経によって大乗律を主張した意義は大きい。(禅学大辞典)

「梵網経略抄」(詮慧述経豪記 延慶二年(1309)撰)であるが、原本は失われている。しかし江戸期に萬仞道担禅師が伝写を校正されて、「仏祖正伝禅戒鈔」として上梓されたといわれている。因みに、道元禅師→詮慧禅師→経豪禅師の系譜であり、経豪禅師は道元禅師の得度の師でもある。

詮慧禅師が道元禅師のご提唱を筆記なされた「正法眼蔵御聞書」を基に、洛の永興寺に於いて「正法眼蔵抄(御抄)」をまとめられたのは、経豪禅師が乾元二年(1303)四月十五日から延慶元年(1308)十二月二十二日迄の六年間。この一年後には「梵網経略抄」をまとめられたことになる。ともに高祖様のご提唱を記録されているであろうことが、重要な点である。

「改訂佛祖正傳禅戒鈔」から見ていきます、

経豪紗ニ云ク戒トハ制止ナリ、對治おさめるナリ。制止ト云ハ、釋迦牟尼佛、始テ菩提樹下ニ坐シ、無上正覚リ終テ、結シ玉フヲ戒ヲ制止ト名ク、我レ輿大地有情ト同時成道ト制止スルナリ、故ニ佛戒ト云フ、但先師モ未説。諸佛モ未ル説戒アリ・・・是レ森羅高象ノ、自道取也。以此道取佛戒受持ノ功徳ト云フ、此ノ外更ニ果ヲ待ツ事不有。

高祖様は「戒トハ制止ナリ、對治ナリ、・・・制止ト云ハ・・・我ト輿大地有情ト同時成道ト制止スルナリ、故ニ佛戒ト云フ。」と言われております。ただこれだけでは高祖様が「佛戒」をどのように捉えられておられたのか、私共にはなかなか理解できません。

しかも、「我ト輿大地有情ト同時成道」と言う言句は、古い経典には見られないと言うことです。だとすると高祖様は釋迦牟尼佛の名を借りて嘘を言ったとか、偽経を作ったと言うことになります。本当にそのように考えて宜しいのでしょうか。少し歴史的にこの「我ト興大地有情ト同時成道」の言句を見て参りましょう。

 

出典 曹洞宗師家会「正法」第7号 (平成31年)