道元禅師の禅戒について

師家会副会長・智源寺専門僧堂 堂長
高橋信善

※漢文部分にて本来の記法と異なる部分がありますがご了承ください。

第1章

大本山永平寺様での説戒師を平成二十九年、三十年度と仰せつかった関係上、「戒」とは何か、特に道元禅師の説かれた「禅戒」「佛戒」とはどのようなものであったのか、これらを勉強させていただく機会をいただきました。

「戒」と申しましても南伝佛教の方では比丘二百五十戒、比丘尼三百四十八戒(五百戒)とも言いますし、中国あるいは台湾では現在も比丘二百五十戒、比丘尼三百四十八戒が基本になっていると思います。

現況は知りませんが、古くは日本でも南都奈良の律宗系の佛教各派では比丘二百五十戒、比丘尼三百四十八戒が行われておりました。特に鑑真和上は六度目の航海で天平勝宝六(754)年、日本に生きた戒律を伝え、東大寺に初めて戒壇を設置して、聖武上皇などに授戒し、唐招提寺を創建したことで有名であると思います。

しかし後代日本では、天台宗の最澄に到って、「圓頓戒」(「梵網経」の十重禁戒四十八軽戒を法華一乗の円理によって開顕したものと言われる)を創唱し、日本での大乗戒の先駆けとなりました。

尚、道元禅師の禅戒は圓頓戒とその趣意を同じくすると言われるが、その詳細については拙衲の専門外であるし、この場には相応しくないので省略します。

現在、曹洞宗の得度式あるいは「伝戒」で行われている「授戒」「受戒」は三帰、三聚、十重禁戒の「十六条戒」が授けられております。これは高祖様が定められたものと言うことが出来ます。

「佛祖正傳菩薩戒教授文」のコピーを差し上げました。その奥書からしても道元禅師が「教授戒文」を作られたことがわかります。その最後の方に、

右教授の文むかしはただ口伝してふでにのこさずといへども 永平和尚あまねく諸人にさづけしゆへに 奘和尚教授とましましまいしときはじめて一説をしるして戒の大概をときおきたまへるをいま慧球姉公スクウに戒法をさづくるとき はじめておしえのままに仮名にかきてあたふるなり(注、ましす、す、まいし=尊敬語)

ときに日本の元享三年(1323)みづのとのい
八月二十八日かきおはりぬ
能登のくに洞谷山永光寺の開山
伝法沙門紹瑾(花押)
今心悟大姉に戒法を授時同此本を用
同洞谷第二代沙門素哲(花押)

(注)原本は富山市海岸寺蔵、永平寺様が特別に許可を得て「続曹洞宗全書」より転載し、現代仮名遣いとルビをつけて印施された。

瑩山禅師は文永五年(1268)越前多禰の里(武生市帆山町)瓜生氏の邸にて生誕。慧球姉公は慧球大姉ともいわれ、能登永光寺の塔頭、圓通院主金燈慧球尼の事である。当時の教団において、尼僧のよりどころになっていたお寺と思われる。心悟大姉あるいは心悟尼は不詳。八月二十八日は道元禅師の旧暦示寂の日。

「佛祖正傳菩薩戒教授文」の一本は、熊本県玉名市紫陽山康福寺蔵。(瑩山禅師-明峰素哲禅師-)祇陀大智禅師書写本。もう一本は、富山市補陀山海岸寺蔵。明峰禅師の弟子月庵コウ(※こざとへんに光)瑛禅師開創(1342) 。この二本が「教授戒文」の古い書写本として残っている。

さて、廣瀬良弘先生の「日本における中世禅僧の授戒活動」によれば、

道元禅師(1200〜1253) の伝戒は五人、別願授戒千人。
懐奘禅師(1198〜1280) の伝戒は五人、授戒六百余人。
義介禅師(1219〜1309) の伝戒は四人、授戒三百余人。
瑩山禅師(1268〜1325)の伝戒は十余人、授戒七百余人。

となっています。

曹洞宗の祖師たちがおこなっていた授戒活動は高祖様→心地覚心、瑩山禅師→孤峰覚明の授戒のように法燈派など他宗派にも及び、それ故に他宗派にも広く知られていたようです。また別の例を挙げれば、地域の山神・龍神・土地神に戒を授けて弟子としたなどと言うのは枚挙に暇がないなど、活発な授戒活動が行われていたことが判明します。

時代背景としては、鎌倉幕府が成立(1192)し、承久の乱(1221)など、武家の台頭、貴族の没落などにより、各地の地方豪族も一族郎党を巻き込んで生死をかけた争いが多発していたことが挙げられます。このような状況のもと、世間の無常観から上求菩提の宗教心が高まっていたこと、各祖師方の法力、道力などの宗教性が優れていたこと等によるものと思います。

さらに、永光寺の開創と時代背景を考えるとき、「禅学大辞典」によれば、

祖忍尼(不詳)、号は黙譜。能登酒匂さかわ八郎頼親のうんのむすめ滋野しげの信直(海野三郎=妙浄禅師)に嫁し、夫信直とともに瑩山禅師に帰依し、その外護者となる。正和元年(1312)酒井保の山荘を禅師に献じ草庵を結ぶ。後これを寺となし洞谷山永光寺と称す。元応元年(1319)禅師について得度、元享元年(辛酉1321) その法衣を受けた。世寿八十余(洞上聯燈録)。

さて、この「教授文」によりますと瑩山禅師が慧球姉公に戒法を授くるとき「はしめておしえのままに仮名にかきであたふるなり」とありますように、この場合は出家授戒かもしれませんが、「教授文」が戒師から戒弟に手渡されていたことが明らかです。

「慧球姉公の授戒」は元享癸亥みずのとい三年(1323 であるから、祖忍尼の伝戒か伝法からわずか二年後の授戒である。祖忍尼と慧球尼は瑩山禅師を含めて、親族か知己の間のような近い関係にあったと思われる。

さて、この「教授戒文」は道元禅師の宗意安心を説いていると言うことができます。つまり高祖様にとりましては「禅」と「戒」とは一つのものであると言う事です。一般的には、戒律を守って禅の境地を深めて行くと考える訳ですが、道元禅師にとりましては「禅戒一如」の所から戒を説き、禅を説くと言ってもいい訳です。従いまして、この「教授戒文」を拳拳服(伏)庸して体得することができれば高祖道が手に入ると言うことになります。どうしてこのように言えるのかを順を追ってお話したいと思っております。

それではそもそも「戒」とはいつ誰が言い出したのでしょうか。

釈迦牟尼佛が最後の説法で「諸の弟子のために略して法要を説きたもう」とおっしゃられて、「佛垂涅槃略説教誠経」をお説きになられました。長くなりますが引用いたします、

釋迦牟尼佛、初めに法輪を轉じて須跋陀羅を度し、最後の説法に須跋陀羅を度したもう。應に度すべき所の者は皆己に度し訖りて、裟羅雙樹の間に於て將に涅槃に入りたまわんとす。この時中夜寂然としておとなし。諸の弟子の為に略して法要を説きたもう。
汝等比丘、我が滅後に於て當に波羅提木叉を尊重し珍敬すべし。闇に明に遇い貧人の賓を得るが如し。當に知るべし此は則ち是汝等が大師なり。若し我れ世に住するとも此に異なることなけん。・・・今より己後展轉して之を行ぜば即ち如来の法身常にいまして而も滅せざるなり。・・・戒は是正順解脱の本なり。故に波羅提木叉と名づく。此の戒に依り因れば禪定及び滅苦の智慧を生ずることを得。是の故に比丘當に浄戒を持ちて、毀缼せしむること勿るべし。若し人能く淨戒を持てば、是則ち能く善法あり。若し淨戒なければ諸善の功徳皆生ずることを得ず。是を以て當に知るべし、戒は爲ち第一安穏功徳の所住處たることを。

ここに説かれておりますのは先ず「波羅提木叉」に依順すれば「禪定及び滅苦の智慧を生ずることを得」、「淨戒を持てば是れ則ち能く善法あり・・・戒はすなわち第一安穏功徳の所住處たることを」と説かれて、私たちが修行する上での注意点をお釈迦様は説かれている訳です。

この戒について一昨年おしくも遷化されました奈良前永平寺西堂老師が佛教史的な流れから戒と律について「傘松」総上に械せておられました。このことについても要点を少し引用させていただきたいと思います。

みなさんもおそらく戒律という言葉の方がなじんでいると思います。しかし戒と律とは違うのです。インドでは戒と律とははっきりと区別されていました。「戒律」とひとまとめにいわれるようになったのは佛教が中国に入ってからです。それでは戒というのはどういうことかと申しますとインド語でSila(シーラ)といい、尸羅とも音写されています。そこから授戒会を尸羅会とも呼んでいます。

このシーラとは佛教者としての自覚を持ちながら(自分で)正しいことを選択し、実践していくことです。これに対して律というのはインドの言葉でVinaya (ヴィナヤ)といい、ルール、規則と言う意味です。ですから律に違反すると罰則があります。律が制定されるようになった背景には教団が大きくなりますと色々な人が入ってきます。修行にならなかったり、他人に迷惑をかける人も出てきます。そこで「こうしなさい、こうしてはいけない」と言うことを問題があったそのつど律を制定していきました。最終的に教団としてまとまったのが比丘の二百五十戒、比丘尼の五百戒( 三百四十八戒)などと通称されているものです。正しくは「戒」ではなく「律」というべきです。戒は自発的な行動なのに対し、律はルー ルであり、違反すると罰則がある。「波羅提木叉」は「戒」のことです。実は「戒」も「律」も欲望からの自由を身につけさせるための手段なのです。

このように説かれております。

「戒」と「律」は本来異なっていた事、インドでは「波羅提木叉」(戒) を修行過程の努力目標・心掛けとして受け止めていましたが、中国(主に「梵網経」)になりますと「戒律」としてひとまとめになり、「十重禁戒」「四十八軽戒」として律(規則)の意味合いに変わってまいりました。そこでどの視点(インド、中国、大乗佛教、南伝佛教など)から佛教を見るかによって戒の説き方、戒のとらえ方が変わって参ります。

例えば佐々木閑先生はある新聞のインタビュー記事で、

日本人の仏教理解は、あいまいすぎるという。仏教学を専門とする佐々木閑・花園大教授が評論家の宮崎哲弥氏と対談した「ごまかさない仏教」(新潮選書)では、仏教の「仏・法・僧」を順に論じながら、根本原理を一つ一つ解き明かしている。佐々木教授に仏教を正しく理解する意義について聞いた。

仏教は紀元前6〜5世紀にインドで発生し、中国を経由して6世紀に日本に伝わった。ただし、中国、日本に入ったのは、創始者であった釈迦が亡くなって500年近く後に現れた大乗仏教であって、釈迦当時の初期の仏教は広まらなかった。

そのため、日本では初期の仏教との違いを分かっていない人が多い。佐々木教授は「変化を歴史的にきちんと跡づけなければ、仏教ならざるものを仏教だと信じてしまう。自分たちが正しいという錯覚、分かっていないことを分かったように言うごまかしを指摘したかった」と話す。

釈迦は出家して悟りを開くが、出家者とは世捨て人ではない。人けのない山奥でひっそりと修行に専念する僧侶のイメージは誤りだという。初期の仏教は独自の規則「律」を守りながら修行のための組織をつくり、お布施で暮らすのが基本で、「余剰の富がある場所でなければ成り立たない都市宗教」として出発した。律は飲酒や性行為など、欲望を助長する行動を禁じているが、これはお布施をもらうに値する立派な姿を示すことで組織を保持しようという智恵だ。こうした禁欲的生活を守り、修行による自己改造、自己改良を突きつめることができないような人も大勢いて、それを救い上げるために現れたのが大乗仏教だったという。

最近は日本でも、初期の仏教により近いとされれるテーラワーダ仏教に親近感を持つ人が増えているという。元々、仏教は家や家族を捨てて、個々人が自分の価値観だけで生きていく道を説く。「近代において個の概念が強くなり、先祖供養や葬送をする「家」の宗教である既存仏教では対応できていない」とその背景を読み解く。

イギリスでもテーラワーダ教団が盛んに活動し、アメリカでは瞑想がブームになるなど仏教は世界的に見直されている。「個に還元されている世界では、個をベースにした釈迦の仏教が必要になってくるはず」。日本で大乗仏教が主流であるからこそ、仏教の歴史と多様性を理解することがより大きな意味を持つのだろう。

と述べられております。

奈良前永平寺西堂老師も道元禅師の「教授戒文」を取り上げながらも、ご自身はインド佛教学の泰斗でありましたから歴史的な佛教の流れを断まえながら、如何にして「佛」となるか、佛近を正しく歩むべきかを丁寧に説いて下さっておりました。

「とにかく大乗佛教では戒を重んじます。テーラヴァーダ佛教では律を重んじます」とも言っておられました。

 

出典 曹洞宗師家会「正法」第7号 (平成31年)