「大地有情非情同時成道」に見る両祖の宗乗眼

智源寺専門僧堂 堂長・師家会副会長
高橋信善

第2章

さて、このようなお話だけでこの講座を終わりにしようかと考えておりましたが、泰養寺様が此の研修会の為にお取組み頂いている数々の四攝法と申しますか、身得度者と申しますか、ご供養に触発されて、さらにまた正法寺専門僧堂からご参加いただきました雲衲の方々の為に拙衲の恥をお話させていただくことに致しました。

自分のことをお話しするのは好みませんし、今までに話したこともほとんどありません。昔から「古参は句に参じ」、「初心は意に参ず」と言うようですので、私の出家得度からの恥ずかしい修行の一端をお話して、わが身の垢を少しなりとも削り取る事がいかに苦しく時間のかかる事か、そして垢を取ってくださる師匠の有難さと、お師家様ないし先輩老宗師の方々が倦まず弛まず佛道を歩み示してくだされた慈恩を申し上げて、泰養寺様のご供養がいかに為しがたく、またこの有り難さを理解しなければ自らの修行の方向性も分からず、いかなる為人垂手も届かない迷妄の衆生になり下がると思う一念で申し上げることです。特に正法寺専門僧堂の雲衲の方々は本格的な修行の途に就いたばかりでしょうから、「鉄は熱いうちに打て」の言葉に励まされて申し上げます。

最初にきついようですが、お寺に暮らすという事は葬儀をして年団法要などをして生活していくだけの事ではありません。それでは「高祖承陽大師・太祖常済大師」と有り難そうに口で唱えても、高祖道・太祖道には永遠に届かないと思います。修行という事は法要の進退を身につけたり、安居歴を得るためだけのものではありません。無我に落ちつかなければ最終的な安心はありませんし、職業的な範囲で満足しようとすればやがて妄想を深くして、自他堕獄の因縁を増長するだけです。

拙衲は高校入学の頃から、いささか無常を感じて出家したいと考えておりました。手始めに高校卒業の夏、山形県にあります最上三十三ヶ所の観音霊場を徒歩にて巡拝致しました。そこにはその当時在家ながらも第二十四番札所をお預かりしていた実家の因縁がありました。

私が高校生の頃でしょうか、同じ最上三十三ヶ所観音霊場の札所を預かる寺院の若き住職が、早春に雪を踏み越えて実家の札所を参持されたときに実家に宿泊したことがありました。その時の縁を追うように、私も後日観音霊場を巡拝致しました。

しかし仏縁があったとはいえ、出家するには迷いがありました。そこで取り合えず大学に入学して「禅」の勉強をしてみたいと思い、駒沢の禅学科に入りました。その時の学科担任が横井覚道先生という人で、改良服を着て剃髪姿で大学に勤めていました。先生はやはり在家の出身で、戦中の衛生兵から戦後に岸澤惟安老師を訪ねて出家し、その後駒澤大学の苦学生を経て大学の教師になった異色の経歴を持つ人でした。そんな縁に導かれて個人的にも先生に興味を持ったことでもあり、先生も少し毛色の変わった学生が来たと興味を持ったようでした。

やがて坐禅会に通うようになり、駒沢の先生の自宅にも出入りするようになり、大学四回生の夏に出家の縁が熟したのでしょうか、得度式をしていただきました。得度式以後私も改良服で大学に通いました。

翌年の春には東京から永平寺に歩いて(一部歩けない箇所もありましたが)上山しました。しかし一年も経たない正月明けに「横井師匠が入院したので、掛け布団を持って駒沢の病院迄すぐ来い!」との連絡でした。維那寮に飛んで行って許可を貰い、暗くなるころ布団を抱えて病院につきました。

ベッドに横になっている横井師匠から「看病しながら二月中旬ごろの大学院修士の受験勉強をしろ、」という有り難くも急な話でした。

半月ほど同室に寝泊まりして看病しましたが、少しも勉強になりません。そこで師匠のお弟子の下宿に転がり込んで十日ほどの一夜漬けをしました。

横井師匠は以前に胃がんの手術をしていましたので、再発の末期がんでした。一ヶ月ばかり過ぎた昭和五十年三月一日には遷化してしまいました。何が何やらサッパリ分からないまま忌明納骨となり、僧籍を変更する必要に迫られていたので兄弟弟子四人が相談して、穏当に法の祖父の弟子になりました。

そこには師父が独身で七十二歳ほどにもなり、住み込みの小母さんと細々と寺を護っているような状況でしたので、四人が互いに師寮寺を補佐しながら自身の勉学・修行を続けたいとの思いがありました。しかしながら、私が修士課程を終えて但馬の師寮寺に戻ったころには、他の弟子たちはもう師寮寺にはほとんど寄り付きませんでした。

自身の身の振り方も決められないまま、取りあえず昭和五十二年の三月中旬ごろに、東京の横井師匠の住まいをかたずけて、コンテナ二台分の本と僅かな家財やぶょうかを兵庫県の養父郡八鹿町の永源寺まで運び、兄弟弟子と二人でダンボール箱二百箱以上の本を石段を持ちあがり庫裏の二階まで運び、六畳一間の天井まで積み上げました。古い庫裏の床が抜けないかと心配したほどでした。

現在では「やぶ市ようか町」と言いますが、読み方からして難解ですし、土地柄も人間も全く知らない土地で暮らし始めることになりました。

岸澤知等師匠は厳しい厳しい岸澤惟安老師に小学校四年生で弟子入りし、修行僧十数名がしのぎを削る中で文字通り鉄漢の打著にあって、半生を老古佛に仕え切った随身者でした。しかし眼蔵家のような生き方は性に合わず、普通のお寺さんで過ごしたいと考えているようでした。その師匠とは四十数歳も年が離れ、生意気盛りの小僧が一緒に生活するようになったわけです。

師匠にしてみれば、弟子の横井に大学をそろそろ辞めさせ、自坊の後住に据えようと考えていた矢先、横井に先立たれたので、その後に来た小僧がやがて後住になってくれればいいと考えていたようでした。しかし私にしてみれば何としても出家の目的を果たしたいとの一念で、日々胸を焦がしていました。それぞれの思いが噛み合わぬまま同居を始めたわけです。そこで仕方なく、できれば随身したいと思っていた白山老師の御提唱をせめて拝聴致したく一年に一ヶ月ほどの他出を貰い、また先輩方とは月に一度ぐらいの交友の場に出る許しを貰う事で、ようやく自分を納得させました。しかし実際に生活してみると、考え方の差は埋まりようのないぐらいに開いていました。

実際の生活はというと、朝の四時、四時半に起きて献茶湯をして朝課。朝課が終わっても夏なら明るくなっていますが、冬場は朝のお粥が終わっても暗かった。しかも自室で本を読んでいることなど嫌いな師匠でしたから、夏場はしゃぶしゃぶのお粥が終わったら十一時半の斎鐘が鳴るまで草取り。午後は一時、一時半ぐらいから夕方六時の昏鐘が鳴るまで草取り。一番長く草取りしたのは一日十一時間から十二時間ぐらいでした。人差し指の爪が減っていきました。冬場は只々雪かき。

師匠は檀務の法事の膳について酒と栄養分を取りますし、小母さんは外食して栄養を取りますが、意地でも買い食いなどするものかとも思っていました小僧は、粗末な食事と法事の膳の残りぐらいの食事で、外出の機会も少なく痩せていきました。

しかし草取りの良いところはうつむいて目の前の草を取るだけの単調な仕事ですから、ありったけの妄想が次から次と悪い頭をさいなみます。師匠のあれが、これが、どうにも我慢ならない、有り難そうなことは少しも教えてくれない、不満はつのる一方でした。「不倶戴天」、共に天を戴かず、そのようにまで思い詰める日暮らしでした。

しかし、一度師匠としてお願いしたわけですから、いくら不満な師匠でもいたらぬ弟子の自分から縁を切る理由はとうとう見つかりませんでした。生煮えのまま時間だけがじりじりと過ぎていきました。

しかし十年もすれば妄想の方が根負けするようで、あれほど絶え間なく浮かんでは消えていた妄念が涙、諦念と共に少しずつ変わっていきました。

「正法眼蔵空華」の巻に「煩悩かならず断除の法を帯せるなり」とあります。高祖様のお示しとは異なりますが、励まされるお言葉でした。師匠は良くも悪しくも常識外のお方でしたので、弟子も常識外の対応を迫られました。特に私は色々思い悩む棹挙悪作(棹悔)蓋の煩悩が強かったと思います。有り難いことに師匠に見事に削り取っていただきました。

ただ盆正月には町中の各家庭の団らんがお寺の方まで伝わってまいります。なんとも悔しくまた羨ましく思いました。体に冷たい風が通り抜けていました。また、寺が高台にありますから連休や夏休み春休みには、行楽の自動車の渋滞が見られます。世間を捨てたはずが、世間を捨てきれない自分に向き合わされていました。

一方、白山老古佛の御提唱は時にはこの身を清め洗うようであり、寄り付きがたく厳しく難解でありました。それでも何とか老師にだけは就いていきたいと思いました。

白山老師の下をお尋ねした時など、岸澤惟安老師の頂相に挿香点燭され、合掌して黙って私のお拜を受けてくださいました。今になると何とも有り難く、老古佛の慈悲落草、撫育の深さを思い出すと涙が流れます。

そして先輩老宗匠の方々と会えば談論風発、そのたびごとに知識も道念も逢かに及ばない自分を確認させられました。しかし先輩諸師の影は見えます、何とか追いつき追い越そうと思いました。共に歩んでくださる方々の有難さを思います。

曲がりなりにも生意気な小僧が今こうしてここに居られるのは、十数年にわたって荒砥となって、私の妄想を少しなりとも削ってくだされた師匠のお陰であり、尊い高祖道、太祖道をお示しくだされ、慈悲深くお諭しくだされたお師家様であり、嫌となるほど噛みついても共に先を歩んでくだされた先輩老宗匠の方々のお陰です。

師匠の最晩年を私の弟子と共に下の世話までさせていただいて送ることができました。せめてもの恩返しでした。とうとう師匠を送る時が来ました、不倶戴天とまで恨んだ師匠を本堂の正面から火葬場に送る時、思わず天を仰ぎました。私がもう少し早く折れていれば、あんなに嫌な思いを師匠に掛けずに済んだものを。自らの業の深さを恨みました。どうぞ皆様方は私のようなお粗末な修行はしないでください。

 

出典 曹洞宗師家会「正法」第6号 (平成30年)